岡倉天心と五浦のはなし
岡倉天心は今から142年前の1862年横浜に生まれました、その頃の横浜は外国人がたくさん住んでおりましたので、小さい頃より英語を勉強したそうです。東大の学生だった頃米国人のフェノロサ先生と出会いました。先生は日本の美術品が好きでよくお寺やお店などに出かけました、そのおともでいっしょにいくことがあり、古い美術品に関心を持つようになりました。卒業後文部省に入り、そこで美術学校や博物館をつくったり、古い日本の美術品を調べ日本の美術のすばらしさを多くの人々に伝えようとしました。そのころの日本は外国のめずらしい物がたくさん入ってきて日本の古い美術品のよさが忘れさられ、売り出されたりこわされた物が多くあったのです、1889年に東京美術学校ができると、日本の美術を大切にしながら洋画の良いところを取り入れ、新しい日本画をつくろうとしました、校長だったころ、大観・観山・春草・武山など多くの生徒が学んだのです。1898年36歳の時校長をやめて、日本美術院をつくりました。そこで美術の研究をしたり、絵の展覧会を開いたりしました。大観など若い画家は、次々と作品を発表していましたが、なかなか売れませんでした。それで美術院もうまくいかなくなり、そのころインドの美術を調べる為インドに行きました。そしてこれらは中国や日本の美術に影響をあたえていることがはっきりしたのです。そして東洋文化のすばらしさを世界に伝えようと思うようになりました。死ぬまで尊敬しあえる友人タゴール(のちのアジアで最初のノーベル文学賞を受賞した詩人)と出会えたのもこの頃でした。日本美術院研究所を東京からほかのところに移しもう一度やりなおそうと1906年五浦に4人の画家(大観・観山・春草・武山)を呼び寄せ、新しい日本画に取り組みました、五浦で書いた日本画は展覧会で多くの人たちにみとめられ、今もすぐれた作品としてのこされています。1904年米国のボストン美術館で仕事をするようになって、1年の半分を米国で、のこりの半分を五浦で生活するようになりました。若い頃の無理がたたり50歳を過ぎた頃、日本に帰り新潟県妙高高原の赤倉の別荘で体を休めることにしたのですが、ますます病気がひどくなり、二度と五浦にくる事はありませんでした、遺言で東京と五浦にお墓をつくるようにたのんでおいたので、今も五浦の海が見える松林の中にねむっています。(赤倉で51歳で亡くなりました)

天心先生のお墓
県立天心記念五浦美術館正門
天心記念五浦美術館
弊社主力商品・カステラかまぼこ・バラの箱形態であります。六角堂のグラビア印刷の箱になっております。
六角堂とは正しい名前は「観瀾亭」といいます。海が見える東屋(小屋)という意味で、天心が自分の庭で海につきだしているところに建てたものです。屋根や部屋が六角形をしているところから六角堂と呼ばれています。
カステラ(12枚入り)
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